相川宗一
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相川宗一
あいかわ そういち
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| 生年月日 | 1942年9月13日(67歳) |
| 出生地 | 埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和区) |
| 出身校 | 慶應義塾大学商学部 |
| 前職 | 会社員 |
| 所属政党 | 無所属 |
| 称号 | 商学士 |
| 世襲の有無 | 3世 |
| 親族 | 祖父:相川宗次郎(第3代浦和市長) 父:相川曹司(第12・13代浦和市長) |
| 公式サイト | さいたま市長 相川宗一[リンク切れ] |
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ファイル:Flag of Japan.svg さいたま市長
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| 当選回数 | 2回 |
| 任期 | 2001年5月27日 - 2009年5月26日 |
| 退任理由 | 任期満了に伴う市長選挙で落選 |
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| 当選回数 | 3回 |
| 任期 | 1991年5月2日 - 2001年4月30日 |
| 退任理由 | 合併による失職のため |
相川 宗一(あいかわ そういち、1942年9月13日 -)は、日本の政治家。元さいたま市長。慶應義塾大学商学部卒業。埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和区)出身。
政治歴
1980年、旧浦和市から埼玉県議会議員の補欠選挙で埼玉県議会議員に当選(自由民主党)。以後、埼玉県議を3期務めた後、1991年に浦和市長選挙に立候補。5選を目指した現職の中川健吉を破り、第18代浦和市長に就任。以後、浦和市長を3期務めた。2001年5月1日、浦和市・大宮市・与野市との新設合併(さいたま市施行)に伴い失職し、5月27日執行の市長選挙で旧大宮市長であった新藤享弘などを破り、初当選した。 また、2005年5月15日執行の市長選挙では自民党県議中森福代を破り、再選を果たした。
2008年11月11日、さいたま市大宮区のホテルで開かれた、在日本大韓民国民団埼玉県地方本部の記念式典で挨拶中、体調不良を訴え、近くの病院に入院した。検査の結果、胸部の動脈に損傷が見つかり、手術を受けた[1]。
3選を目指して立候補した2009年5月24日執行の市長選挙では、自民党埼玉県連・公明党埼玉県本部の推薦を得たものの、当選した場合通算6期22年となる多選批判や健康問題、長年にわたる浦和優遇・大宮冷遇の地域差別への反発。自民党国会議員の一部が再び立候補した中森福代陣営に流れたことが響き、元県議会議員の清水勇人に敗れ落選した。自身が現職を破り、市長となった時と逆の結果となった。
逸話
浦和市長選挙初出馬時、地元選出の自民党衆議院議員松永光は中川健吉を支持したことから、以後松永と対立。市長就任後は自民党との間に一定の距離を置くようになった。市長選挙には毎回公明党の推薦で立候補しているが、政治信条は一貫して保守であり、市議会において新しい歴史教科書をつくる会による歴史教科書に賛意を表明するなどしている。
旧浦和市長時代には市内に本拠を置くプロサッカークラブ、浦和レッドダイヤモンズのファン(レッズ後援会の会長)であることを公言していた。旧浦和市が合併し新市さいたま市の市長に在任中は、さいたま市として合併した旧大宮市に本拠を置く大宮アルディージャの存在に配慮して公言は控えた。これは、アルディージャ後援会の会長に就任したためであった[2]。
両チームが対戦するさいたまダービーも、「自分が会場に行くと角が立つ」と言う理由でもっぱらテレビ観戦だった。とは言うものの、2009年の市長選では浦和レッズの元監督ギド・ブッフバルトが応援演説を行い、大宮批判を行った。
家業は元禄年間から続くという米穀商。祖父・相川宗次郎と父・相川曹司は共に、元浦和市長で、親子三代同一市町村の市長となったが、旧浦和市のような大きな自治体で、かつ県庁所在地では全国的にも非常に珍しい。
上記の通り、さいたま市発足後は旧浦和市、与野市に予算を偏重するなど、旧大宮市、岩槻市を冷遇した結果、大宮区、見沼区、西区、岩槻区の住民から反感を買い、現市長の清水に敗北(清水は見沼区在住)、市長の座を追われることとなった。この浦和優遇、大宮冷遇の市政の影響か、かねてから対立関係にあった両市の溝は埋まらず、特に旧大宮市域の住民からは、「旧大宮市はさいたま市から離脱し、単独市制に戻るべきだ」という声もいまだ少なくない。
脚注
- ^ 相川さいたま市長が緊急手術=「胸動脈に損傷」-公務中に体調不良訴え 時事通信 2008年11月13日閲覧
- ^ 双方の後援会の会長は、ホームタウン所在地の市長が就任する事と決められていたためである。
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